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マンスリーレポート

2008年07月

「コミュニティと信頼」

 

以前、人生において「信頼しないということ」が最大のコストだという話を書きました。
信頼しない、つまり疑うことによる、そこから様々な手間や時間、または妄想することによる物理的、精神的、衛生的な負荷、性悪説でものを考えていくと際限なくリスクの担保を張り巡らせることになりますので当然ながら大きな負担になる、よってコストがかかるわけです。
では手放しに「信頼する」ことを前提に生きていくことも、これはこれでそんなシンプルな気持ちにはなれないのではないでしょうか?
という具合に堂々巡りを繰り返し、結果適当な塩梅(あんばい)で、自分自身の(他に対する)“信頼の基準”を決めて人は生きているのかもしれません。
しかしそれでも少なくても人間は「(相手から)信頼を得ること」また「(相手を)信頼をすること」のために邁進することを怠らないほうがよいのだと思います。
人は人によって支えられているものです。
「人」という文字もまさに文字通り“右側の右肩下がりの棒によって左側の右肩上がりの棒をささえて”いますね。
また、自分のモチベーションが下がったり、誰かと言い争ったり、また例えばお客さんなどからのクレームを受けたり、怒られたり、怒ったりなどネガティブな要因で精神的ダメージがあるときは大概が「人との繋がり」や「(人との)コミュンケーション」に何かの問題が生じた場合ではないでしょうか?
昨今の信じがたい殺人事件や自殺、いじめなどといった出来事の深く根ざしているものはこの「人とのつながり」が希薄になっているところから端を発しているように思います。
また一方で、希薄でも生きていける時代、つまりネット社会になり、人とのつながりがなくても生きていけるような時代になっていることも事実なのではないでしょうか。
だからこそ、そんな時代だからこそ「人とのつながり」「価値観の共有」ということで様々な「コミュニティ」が出てきている、またそれを求めている人たちに溢れた社会になっているようにも感じています。
「人と関わる、人とつながる」
これは生きていく上でとても重要で、フロイトの言葉でも「人間は重要感を感じて生きている」
そんな言葉があります。
重要感は自らが満たすことが出来ません。
誰かがいて、誰かによって満たされる、そういった意味では、自らで満たすことの出来うる生理欲や自我欲、自己実現欲などとは次元が違うのだと思います。
そしてその重要感を得ることが「信頼を得ること」なのではないでしょうか?
「信頼を得る」ためにはどうしたらよいのでしょうか?
もちろん信頼を得るために、自分自身を磨き、鍛え、人望のある人間になっていくという自己啓発は大事なことだと思います。
しかしもっと突き詰めていくと「信頼を得る」ための一番手っ取り早いことは
「(そもそもこちらから相手を)信頼する」ことであることも間違いないのではないでしょうか?
「鶏が先か卵が先か」という言葉がありますが、人間関係の縺(もつ)れは、どちらが信頼するか、されるかの縺れにほぼ集約されているような気がします。
こちらが「信頼する」ことで相手が「信頼してくれる」
逆に、こちらが「信頼しない」のであれば相手も「信頼してくれない」場合が多いのではないでしょうか?
そしていずれにしても、勝手に成り行きでは「信頼関係」は築けないので、手っ取り早いのが相手を「信頼する」ということ、そこから始める!そんな理屈です。
ところでこの「信頼」というテーマですが・・・
私たちが日頃、生活や仕事をする上での信頼情報はどこから発生されていますでしょうか?
テレビから、広告から、ブランド企業から・・・などなど色々あると思いますがよく考えてみてください。
「自分の信頼のおける友人」とか「気が合う人」「憧れの人」などからなどの「人からの情報」ではないでしょうか
「信頼している人からの情報」、つまり「口コミ」
これほど「信頼の高い(と感じている)情報」はないのです。
信頼の高い(と感じている)人からの情報には“疑いの気持ち”はありませんね
ですから「確認」の行動や作業は要りません。(というかしません・・よね?)
また疑っていないので「気持ち」的なモヤモヤもありません。
銀行などでお金を貸し借りする場合に発生するような、いわゆる「担保」も要りません。
リスクを回避するための「保証」や「念書」なども要りません。
逆に言うと、信頼がないから、保証や担保や確認が必要で、その設定や行動には必ずコスト(手間)が懸かるわけですから、やはり「信頼がない」「信頼をしていない」という時点でコストが
かかるということです。
かつて「バカの壁」の著者で医学者の養老猛先生が「家庭のコスト」について語っていました。
「夫婦喧嘩が起きたとき、お互いの顔つき合わせてお互いの主張や言い訳を繰り返し、お互いが正当化していくと喧嘩がエスカレートする。やがてお互いのアラ探し、過去の失態を非難しあい、それでしまいには価値観の違いに絶望すると・・・しかしよく考えてみると人間なんてそもそも違う価値観で生きている訳だし、しかもこれまでの数十年という人生その自分の信じる価値観で生きてきちゃっている訳だから、そこを夫婦といえども他人が論破しようとすることが、そもそもムリがあるんじゃないかと・・・・だったら相手の価値観変えようと必死になるのではなくて自分変えちゃった方が早いんじゃねえかと」
ということで
「そう考えると、自分を変えることで家庭のコストが下がる(家庭円満になる)・・・メシもしっかり食えるし茶碗も飛んでこなくなる」と
自分を変えること、すなわちここでは「相手を信頼しようとすること」
言葉で書いたり、思うことはとても簡単なことのようですが、いざこのことを人前にして行動なりしているといとも簡単に忘れてしまう。
それも私含めた人間の弱さでもありますね。
会社なり組織を経営する上でもっとも大切なことは、業績でもヒトを使うことでも、カネを器用に扱うことでもないと思います。
モノもカネもヒトによって動かされています。
「人を使う」という言葉をよく経営者の人が口にします。
人はモノではありませんので「使う」ものではありません。
ヒトはモノやカネを取り扱う、もしくはそれに価値をつけていける唯一の意思を持った組織の中における資源です、
「意思を持っている」ということで既にそれは個性であり、オンリーワン、
命以上に大切なものはないということは、人間誰しも頭で理解していることであり、子供の頃から散々聞かされてきたこともでもあります。
つまり、生きていること自体で既にそこに世の中に対して意味があるわけですから、その意味を「人を使う」という概念で一括してしまうということはどこかの国のような独裁者政権のようなものです。
そんな人治国家(組織)のような手法がこれから続くとは到底思えません。
話はそれてしまいましたが
「信頼関係」が「(人との)つながり」をつくり、それが「コミュニティ」というカタチで形成されていく。
アマゾンというネット書籍販売の世界的会社は皆さんご存知でしょう
本の検索をしたり、また購入すると「この本を買った人は・・・」という案内表示が出て、その本を買った人が買った別の本を掲載しています。
要は「この本を買った人」つまり「この本に関心を持った人」のコミュニティがそこに出来上がるのです。
これだけ価値観が多様化し、情報が洪水のように流れ出している社会の中で、個性化、自立化、自己責任というのが大きなキーワードになっている一方で「(人と)つながっていたい」という要求、要望は益々高まってくるのだと私は思います。
そういった意味でも「コミュニティ」という言葉はこれからの時代の大きなキーワードです。
「コミュニティ」、それは「信頼関係の証」
そして私たち「コミュニティホテル」
お客さまと私たち、またお客さま同士の繋がりを大事にしたホテルが「コミュニティホテル」
そう感じています。
 
長田 一郎