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マンスリーレポート

2009年10月

「経営体験発表」

 

平成21年10月5日
今回はある経営勉強会(盛和塾)の「経営体験発表会」という場で、まさにこれまの経営体験をお話しする機会がありその原稿(そのまま読み上げ)を今回のレポートにしたいと思います。 かなり長い内容なのですが、これまでを振り返って話すには足りないくらいです。
是非ご一読ください。
<株式会社ホロニックについて>
会社名:株式会社ホロニック
代表取締役社長:長田 一郎
設立:1998年12月
資本金:310百万円
売上:約3,000百万円(09年3月実績)
約4、300百万円(10年3月予想 連結)
関連会社:株式会社ホテルシステム二十一
従業員数:約180名(09年9月現在)
事業内容: ホテル運営事業及び経営、婚礼を中心としたバンケット運営事業、レストラン事業
運営実績: 【自社運営】
■セトレ(神戸・舞子)
■セトレハイランドヴィラ(姫路市)
■レイクアルスター(大阪・泉大津市)
■グランドホテル松任(石川・白山市)
■ガーデンシティクラブ大阪(大阪・梅田)
【関連会社】
□ホテルシーガルてんぽーざん大阪(大阪・港区)
□加古川プラザホテル(加古川市)
事業領域:コミュニティ型ホテル
・都市近郊地域密着型施設
・複合型多機能施設
・中小型施設
経営理念
地域の人々の生活環境の充実、生活感度の向上を目指し、「良質の社会創り」に貢献します
事業コンセプト
お客様に快適で心地のよい時間と空間を提供するに「地域密着型ホテル」の運営会社として
コミュニティ型ホテルのホテルブランドを構築し独自の業界基準を確立していきます
<会社概要>
1999年1月ホロニック社を設立、創業しました
ホロニックの語源は「全体(HOL)と子(ON)を組み合わせた全体子」、
それぞれ独立した発想、思想、意識を持つ個人が調和されて組織体として成り立っている
「1人のカリスマより多くの個性あるリーダー、スタッフに支えられる会社、考える個の集団」
それは事業の根源、資源でもある組織のあり方についての私自身の考え方、組織観をそのまま社名として反映させております。
・生活者にとってのライフスタイルに影響を及ぼすことで豊かな社会創りに貢献していくこと
・新しい業、新しい市場を創造していくこと
この2つがホロニックという会社を通じてやっていこうと決めた私自身の一生のライフワークです。
<業績推移> 過去6年間の売上と経常利益(単位:千円)-1,000,00001,000,0002,000,0003,000,0004,000,0005,000,000売上経常利益売上371,616850,6291,317,8671,954,5933,152,3324,000,000経常利益-60,675-179,42117,76113,95621,45431,0002004年2005年2006年2007年2008年2009年(予測)
<事業内容>
私どもの事業は上記にもありましたように「コミュニティホテルの運営及び経営」を行っております。
皆さんがイメージされるホテル業には下記にあるような「都市型の大型ホテル」また、いわゆるビジネスホテルである「宿泊特化型ホテル」、また「旅館、リゾート」と大きく分けたらこの3つのカテゴリーがイメージされるかと思います。
それら3つのタイプにはそれぞれの特徴があり、「都市型大型ホテル」はいわゆる資本のある大企業、またはインフラ型の企業などが開発、経営するのに適し、「宿泊型特化ホテル」は事業モデルがシンプルゆえに逆に参入障壁が低く、異業種からの参入の多い業態、また「旅館」は基本、家業、大型リゾートも大手資本が圧倒的有利と言われています。
その中で、当社は独自性を打ち出せる要素の高い土俵、領域を参入事業として、「地域の生活者にとってのコミュニティプラザ」としてのホテル、それを「コミュニティホテル」と定義づけその分野に特化して展開しています
<市場について>
日本のホテル・旅館業界の市場規模は3兆円程度(但しこれはホテルに関しては宿泊業態だけの数値)、いわゆる日本のホテルの構造は宿泊:宴会:レストランの売上比率が3分の1ずつと言われているため、ホテル・旅館の施設としての市場規模はおそらく6~7兆円くらいと思われます。
ホテル、旅館の数は下記のような推移になっております。
参考:厚生労働省「衛生行政業務報告」より
その中でコミュニティホテルと言われる領域を測るデータはありませんし、またその概念自体が確立されているわけでもありません。
しかしながら、全国的にみても大よそ15万人程度以上の居住地域の市、区には必ずといって良いほどその地域のランドマークになるようなホテルが存在し、それらのほとんどが地域の個人、法人向けの宴会や集会を主体にしたホテルとして存在しています。
皆さんのお住まいの市や町にも思い当たるホテルがありませんでしょうか?
それらは、事業主体が行政やそれに関わる第三セクターもしくは地元の名士であるケースがほとんどです。
少し乱暴に表現するならば、それはすなわち「地域の憩いの場、地域社会の貢献」といったところが主目的であり、「事業性を緻密に計画されて開発されたものではない」ということです。
それらはバブルの頃に多く開発され、事業として行き詰まり結果として、閉鎖、負債カット、法的整理などから再生を要する事態に陥るケースが多いわけです。
昨今バブル崩壊、不動産処理の観点から、海外含めた投資家、ファンドの出現で売買が活発化され、それゆえに私どものようなベンチャー会社がホテルの再生を目的にした運営事業に携わることが出来た理由の一つかと思っております。
一方で、事業性が乏しい(と考えられる)業態ゆえにその事業のポテンシャルや施設の存在意義などが課題になります。
しかしながらその地域の生活者などにとっては、まさに地域の象徴、ランドマークである、それはいわば、病院や公民館などといった存在と同じような「地域の貴重なインフラ」なのではないか、またそれを維持させることに私たちが関与することは、社会的にも意義があることなのではないか。
そんな想いから事業性を出していくことでホテル業界における新しい分野や領域を切り拓いていくこと、また地域社会や業界に対してホテル運営を通じて貢献していくということをせつに考えている次第です。
<これまでの経緯>
私は1967年に神奈川県で生まれました。 先月で42歳になりました。
父は山梨の大家族農家出身で9人兄弟の末から2番目で、唯一大学を出してもらったそうです。
私が物心ついた頃はタイルなどを扱う中小商社の課長くらいだったかと記憶しておりますが、その後部長、専務、そして私が10歳の頃には社長になっておりました。
派手ではありませんがそれでも引越しなど繰り返し生活環境が年々良くなっていく状態を目の当たりにしていましたし、そんな父の影響からでしょうか次第に会社の経営者になることを意識していたのかもしれません。
小中高校を通じて、一貫して普通、勉強も普通、運動部でしたが特筆する立場でも活躍することもなく、リーダーシップがあるような目立つ存在でもなく、かといって目立たないわけでもない、そんな普通の少年時代を送り、これまたごく普通に大学に入りました。
そんな“普通コンプレックス?”のような私がせっかくの大学生活だからということで向かった方向は「勉学」ではなく「会社ごっこ」でした。
当時バブル真只中、学生がディスコなどを貸し切ってパーティをしたり、その集客のために企業のスポンサーを取ったりといった活動が盛んだったこともあり、私もその渦中で他の学生とは違う生活、またそれを通じて将来何か独立したい、起業してみたいなどという考えが芽生えてきました。
就職は、そのまま何かを立ち上げるという選択肢もありました。
就職先に困る時代ではありませんでしたので、どこかの大企業を経験するのもいいなどというとっても生意気な感覚を持っていました。
その過程で、大和證券という証券業界に進むことを選択しました。
決め手になった理由は就職活動を通じてOBの方に
「人の体を事業と例えたら金融は血液みたいなものだから、長田君が将来独立したいなら金融を覚えておくのがよい」と言われ私はそれをそのまま真に受けました。
また当時証券不祥事などが明るみに出たり、野村證券が「ノルマ証券」と言われるような厳しい業界だということを聞かされたりしていましたが、逆に短期間で自分を磨くことが出来うる、そして人脈を増やすのに最適だと
めでたく勝手に解釈してその世界に入りました。
3年間お世話になりましたが、そこで学んだことは「数字が人格という世界」、そして「大企業の組織論理」肝心の「金融スキル」は大して身に付く事はありませんでした。
しかし、この「商品がお金」しかも金融自由化前でしたから「売るものは誰がやっても、どこの会社でも条件は同じ」という中で、自分を売り込むことの大変さ、そして現実を知るには本当によかったと思っています。
26歳の時前職のプラン・ドゥ・シーというベンチャー企業に転職しました。
転職といっても私の高校時代の親友が立ち上げたブライダルのプロデュース会社で、社員は社長以外私だけ、あとは2~3人のアルバイトか友人かよくわからないようなまさにサークル活動の延長のような会社でした。
ブライダルの仕事には全く関心が無かったので、何かそこで新規事業をやりたいという想いでおりました。
しかし、その会社に資金がないことがわかり、“資金繰り”というか“お金集め”に必死でした。
まさに自転車操業とはこのことで、明日の売上を明後日の支払い、給与にあてがい、次の経費の支払いまでの売上を上げる、銀行は、都市銀行はおろか信用組合にまで鼻で笑われる始末でした。
無理やり収入を増やすためにパーティを主催したり、夏場には海に行ってテキヤみたいなことをしたりして奔走する日々が一年間くらい続きました。
出来ることは何でもやりましたが、傍からみていると遊んでいるようにしか見えなかったのでしょう。
ある日父から「お前は何やっているのだ」と聞かれ「こうこう、こんなこと」と説明し、これからこんなことをしたいなどと話しているうちに「そんなもの事業にならん」といわれ、売り言葉に買い言葉で「そんなことやってみなければわからないだろ!」と言うと、最後ひと言「26歳になっていっぱしの大学まで出てそれなりの企業にいた挙句、やってみなければわからないなどと幼稚なこと言うな!そこまで生きてきているならやってみなくてもわかるくらいの見識持て!」といわれ撃沈しました。
そうこうしているうちに、ブライダルの仕事に携わらざるを得なくなり、入社1年後1995年の春頃からこのウエディングプロデュース業に関わりました。
ウエディングの仕事はイベント業ですから、学生時代の経験や感覚からさほど違和感もありませんでした。
しかも、当時結婚式といえばホテルか結婚式場、ガチガチの自由度のない、お仕着せのサービスを提供している業界でした。
その先達によってつくられた風習の元に業界の常識が形成されていました。
「こんなのでいいのか!」「そんなのおかしい!」そんな気概や気構えでこの事業にのめり込みました。
また当時、バブルの名残で各地に遊休店舗、遊休地、また高級住宅街などに資産家の別邸などが空き家でゴロゴロありました。
飲食店であれば駅前など繁華街が好立地といわれますが、当時私たちが提唱した新しいブライダルのスタイルと言えば、「貸し切り」「オリジナル」といったことがキーワードでした。
すなわち、“(空き家になった)ロケーションのよい邸宅を貸し切る”そんな場所のニーズが高まり、お金のないベンチャー会社としては家主さんやオーナーに「ほっとくと税金も取られるし、建物痛みますので有効活用しましょう」などと言って安価で借り上げたり、または委託を受けてやりだしたりしました。
それらが時代や業界の新しい流れに乗って当たりました。
また証券会社時代には体験しなかった「お金を頂いてありがとうと言われる」
そんな素晴らしい仕事を振り出しに、私の事業感が芽生えました。
ブライダルというお仕事そのものはさながら、それを通じて既存業界の構造やあり方を変えていくことで新しい市場を創造していく、「業」と言われるものを生み出したいと思っていました。
今でもよく就職説明会などで学生さんたちを前にしてこんなことを言います。
「クロネコヤマトの仕事は昔郵便局がやっていた仕事、セコムは警察、コンビニだって30年前までそんな概念すらなかったが、今やどれも“業”として誰もが知る会社、業界になっている、そんな“業”をつくりたい」
そして「人の生活に直接何か影響を及ぼすことで、心が豊かになり、その地域や社会に貢献できないだろうか」
以降この2つのテーマを自分のライフワークにしていくことを意識しました。
そんな想いで1999年に前職を退職し、31歳で現在のホロニックを設立しました。
当初、少子化などの社会傾向からブライダル業のポテンシャルに懐疑的であったので、ブライダル以外の事業を展開することを考え、上記2つのテーマになぞらえて飲食店、物販店、公共施設の食堂など遊休施設と言われる「店舗再生ビジネス」と称し、お話を頂ける先からは何でも受けていました。
一度ダメになったような店を居抜きなどで受託していきますので、大きな投資は要りません。
また、経営や運営に困った施設だけに我々が取り組む際にもリスクなく関われます。
なので、大きな失敗もありませんでしたが、一旦ダメになった施設を何のノウハウなくして大きく成功さることもできるはずもなく、それはやがて店だけ増えて利益もわずか、挙句の果てには「何屋かわからん!」といった状態になりました。
そして気付いた頃には全ての事業が中途半端になり、主力であるブライダルでも、かつて仲間、同志であった専業会社が急速に拡大し、私達の会社は「かつての先駆け」がもはや「出遅れ」に陥っておりました。
そして創業5年目、それまでやっていた細々としている事業をやめ「ホテルの運営業」を目指すことで舵を切ることに決めました。
これまでの主流事業であるブライダル業を活かしつつ、また人々のライフスタイルの向上を提供出来うる業態、そしていわゆる「業」としてなかなか成立していない領域、そんなところから「コミュニティ型ホテルの運営会社」として市場を切り拓こうと考えました。
当初ホテル運営の実績がないにも関わらず「ホテル再生事業会社」と謳いながら金融機関、不動産会社、投資会社、ファンド、サービサーなどをくまなくまわりましたが、実績のない会社に簡単に運営を任すわけもありません。
そんな頃廃業したホテルの買収の話が持ち上がりました。
それが今の当社の主力ホテルである、神戸舞子にあります「セトレ」です。
ロケーション、立地などは言うことなしでしたが、所有者や経営者などのトラブルで社会問題になっていて、当時は廃墟になっておりました。
それでも様々な諸条件を満たしながら購入することが出来ました。
その当時の会社の売上が3億超、ホテルの買い取り金額が3億5000万円でした。
改修費などを合わせると10億近くのお金がかかり、それを全額借金しました。
今思えば、担保があったとはいえ、銀行はそんな会社によく貸し付けたなあと思います。
また常識的に考えると自己資本も自己資金もない会社がホテルを所有するなど無謀な話しでありました。
しかしその時はまず「事業をはじめる」ことに必死でしたから全くそのリスクを考えていませんでした。
2005年4月に開業し、お祝い気分も束の間、早々から資金繰りとの戦いでした。
案の定いきなり、資金は底つく寸前、もはや金融機関も追加融資などありません。
同時に、関係者やベンチャーキャピタルなどに出資を仰ぐ動きを進めていましたが、それもなかなかうまくいかず悶々とした日々が続きました。
懐にいつも資金繰り表を入れ、何度見ても変わらないその紙をじっと見詰めることがよくありました。
夜家に帰って女房、2歳と生後間もない2人の子供の顔見て、彼女たちが元気な姿を見るほどつらくこのまま会社が潰れたら、社員もさながら、連帯保証にも入れているかみさんは・・またこの子供たちはどうなるのかと思
うと用事がなくても子供が寝ている時間まで家に帰らず、朝は起きる前には会社に行くといった毎日が3ヶ月くらい続きました。
身売り話もありましたし、リスケ、法的整理、倒産などが頭によぎる中、ようやく最終ジャフコ(VC)から1億円の出資を仰ぐことが出来ました。
しかし安心もつかの間、せいぜい3ヶ月くらいしか資金が持たないことから引き続き出資先を探し、当然営業強化の繰り返しが続く中でふと思いました。
このお金の問題が解決したらモノゴト全てが解決するのだろうか・・・と。
そう思うとさらにもっと真っ暗になりました。
社員が疲弊していることに気付かず、会社を辞めていく人が続出していました。
結局その時「お金」ではなく「人材」の大切さを本当に目の当たりにしました。
大変煮詰まっていました。
そんな矢先に「社長は社員にありがとうとひと言でも言ったことがありますか?それだけでどれだけ彼らが救われるか」
とその年の7月に、元社員に言われました
その一言をきっかけにその日3つの決断をしました。
ひとつは、社員にこれまでの自分を謝り、この窮地に皆さんの力を貸してほしいと頼むこと、そして1人ずつに手紙を書くこと。
ひとつは、ホテル業以外の事業を全て撤退すること。
ひとつは、その当時迷っていたあるひとつのホテル再生案件(レイク)を受託し、ホテル業に突き進むこと。
それが私にとって大きな転機になりました。
その話をして社員に理解を請いました。
涙する社員もおりました。
半年前に自らが辞めさせた社員に頭を下げて戻ってきてもらいました。
今必要なのは「経験や技術」ではなく「スピリッツ」なのだと言いました。
それ以後会社の売上は毎年1.5倍ペース、そして今の規模になりました。
現在創業して10年余り経ちますが、今行っている事業所は7箇所8店舗、そのうち一番古い店舗は今から4年前にオープンしたセトレであります。
これまで失敗など撤退した店舗数で言えば10指では足りません。
当初の6年間でやっていた事業は今ありません。
しかし、その失敗の繰り返しが今の礎になっていることは間違いないと思っております。
<現在の課題と今後の展望>
この4年間でいわゆる「地域型コミュニティホテル」が6施設に増えました。
その中には自社所有もありますし、オーナーからの受託、もしくは賃貸、ファンド会社からの受託、またホテル会社のM&Aなどもやりました。
上場の準備もしておりますが、私にとって上場の意義は「業界の市場認知・向上」の一点です。
ホテル業で上場している会社は10社ほどありますが、ベンチャー会社がないのはおろか、そのほとんどが運営における事業性よりも、優良な不動産資産価値、またそこから生み出される不動産的収入により評価されているのが現状です。
私たちはコミュニティホテルの運営会社というフィールドで、いかに「わが国のホテル業界の中で影響を及ぼす
企業」そして「わが国のホテル業界の地位向上の担い手になる企業」ということを掲げています。
ホテル業界はいわゆる労働集約型人材業である一方、資本集約型装置産業であり、資本と経営が一体となって成立されているケースが多く、資本を多く持つ電鉄会社など、インフラ系の企業の子会社から、経営者が出向しているケースが多いのが現実です。
それはすなわち、現場経験のない人材がホテルを経営する構図です。
一方、ホテル業といえば子供でも「サービス業の極み」ということでそれに憧れを持つ人も居るくらいです。
そんな夢を売るサービス業、人の生活感度を高める時間や空間を提供する仕事がもっと市場に認められるようにしていきたい。
かつて「ホテル業」をやる決断をした頃、あるホテル所有者、地域の名士でもある経営者の方に言われました。
「長田さんは企画力やソフト力が大事とか言うけど、ホテルは所詮ハードでしょ」
とまさしく資本の論理を振りかざしたようなことを言う方がいました。
悔しい思いをしましたが、しかしそれでも言い返せない自分がいました。
実績がなかったからです。
「絶対にこのホテル業界の構造を変えていこう!」
そんな気持ちが一層強まったのもその頃でした。
それでまずを持って自社でリスクを負って実績を出すことが手っ取り早い方法だということでしたので、分不相応の借金をしてやること、そこに迷いは全くありませんでした。
創業以来「ブライダル専業会社」から「遊休店舗再生業」、そして「ブライダルを主体にしたホテル業」と微妙に立ち位置を変えてきましたが、05年以降、「コミュニティホテルの運営、経営」というポジションでブレがなくなりました。
「コミュニティホテル」という概念そのものが、まだまだ一般的ではないので、その事業性、可能性、将来性などを万人の方々に理解してもらうには途上ではありますが、必ずやその分野を切り拓いていきたいと思っております。
昨年、12年構想図を社員の前に掲げました。
それが下記です。
具体的な数字の毎年のマイルストーンは省略しますが、これもホテルの運営会社として、またコミュニティ型ホテルという領域をきちんと切り拓いていく上ではクリアしておかねばならないという構想図です。
そしてそれに期限を入れた次第です。
<ビジョンの共有>
今の課題はホロニック社の向かうべき方向をより明確に社員全員に示すことであり、そこに共感してもらうことに日々心を焦がしています。
それまでは、“社員は会社を活用すべき”というそれらしい風の思想?のもと「権限委譲という耳あたりの良い“丸投げ””放任“」という行い、「独立する奴こそが優秀な人材」などと豪語までしておりました。
そこに社長としての会社の指針・方針などありません。
(あったような気もしますが、今思うとかなり薄っぺらく、無いに等しいものです)
そんな中で共に走っていく社員はどこを見ればいいのでしょう?
「勝手にやる人」(勝手にやるしかない・・)
もしくは、
「社長の顔色を見る人」
これしかありませんでした。
社長は、通常様々な変化に応じて思考や行動が変わります。
信念、理念の基本を持っている社長であれば良いですが、それがない社長はほとんど気分や機嫌ですから、顔色を見ている社員はそれに付き合わなければならず苦痛です。
それでも創業の頃は社員も少なく、顔をつき合わせて喋ったり、語ったりする機会が多いからまだましです。
社員が増え、事業所が増えだしたらそうはいきません。
どんどん事態は悪くなります。やがてこんな状況に直面しました
「そして誰もいなくなった!」
そんな事態がおきても、まだなお去っていく社員たちの資質のせいにしたり、環境のせいにしたり少なくとも自分に矢印を向けることが暫く出来ませんでした。
当然事態は好転するどころか悪くなる一方でした。
悪くなって“もうだめだ!”となってはたと気付きました。
「この事態になって一番困っているのは一体誰だ・・・え~俺じゃん! で誰がこの事態を良くしてくれるの? というかそんなことを誰かに頼っている場合? だったら俺が変わんなくちゃいけないじゃないか・・」と、
そんな傍から見たら冗談みたいな話しが現実私の中で起きました。
そして、
社員であろうと部下であろうと人様(ひとさま)を変えようとする前に自分だろ・・と。
そのためにはどうしたらよいのだろうか・・
まず会社が・・・そして俺自身がみんなにとって魅力的に思ってもらわなければいけないのでは・・
魅力って・・
俺に対する忠誠心?そんなおこがましい・・など思い巡らせながら自問自答して出てきた答えは、
「ベクトルを設定すること」でした。
理念やビジョンを掲げること、それを共有すること、
それが実現すれば社員は活き活きし、社長の顔色を見るのではなく、その方向を向いていくのではないかと思いました。
当然社長である私も一緒になってその方向を向きます。
この循環が出来れば、仕事においての経験や技術、そんなものはさほど重要なことではありません。
会社の力は、そのビジョンや理念の共有で強固なものになると、今確信を持って感じています。
<盛和塾から>
盛和塾に入塾し、「経営の原点12か条」を日々目にします。
そこに書かれていることは全て今の私にとって自然に意識しているもののような気がします。
それでも読み直すと改めて身が引き締まる気持ちにもなります。
「事業の目的、意義を明確にする」
明確になっているつもりになることがよくあります。
しかし、このような発表、また様々な方々との交流の中できちんと説明できなかった時、「まだまだだなあ」と反省する毎日です。
ホテル業、ホテルという装置を通じて、地域の生活者に豊かな心地を提供して生活感度を高め、生活の充実に貢献したい、そんなことを思っていますが、ひいては「心の豊かさ」とは一体何か、それを提供することで本当に幸せになれるのか・・・などと自問自答するとまだまだ明確な答えが出てこないのも事実です。
「経営は強い意志で決まる」「燃える闘魂」「勇気を持って事にあたる」「誰にも負けない努力をする」
以前ある会計士でベンチャー経営者の方に言われました。
それは借金を例えにされていました。
「飛行機は離陸するときが一番怖い、しかし雲の上に乗ったら怖くない、それは借金も一緒、返せると感じているうちの借金は怖い、しかし返す術がなくなったら怖くない」
不謹慎で極端な表現方法かもしれませんが、私はその時、また今でも、退路を経った不退転の覚悟を持ってコトに臨む、途中で投げ出せない、きちんと着陸させるしかないそのような環境を自らつくりそこに向かっていくことが大事なことだと思いました。
経営者の覚悟は必ず社員に伝わることを最近切に感じます。
お客様が大事であることは言うまでもありませんが、そのお客様と向き合う社員たちにその会社、組織に対して
強いロイヤリティを持ってもらうことがそれと同等もしくはそれ以上に大事なのではないかと、また経営者はその環境をつくることに邁進することが最大にして唯一の役目、役割なのではないかと実感しています。
本日は、改めて自分を振り返り、またこのようなつたない話でもさせて頂く機会を頂戴し、大変感謝しております。
会社としては、今は成長しているとはいえません、財務体質からいくといささか膨張気味です
今回同じ境遇の皆様と学びと共有をさせていただくことは大変有意義なことでございます。
またこの場を通じて自分自身を高め、会社の成長に活かしていきたいと思います。
本日はご清聴ありがとうございました。
目下、厳しい経営環境下の元、改めて全社員に対して「向かうべき方向=ベクトル」を示すべくスローガンを掲げました
それが下記です