経営理念

HOME > トップメッセージ > マンスリーレポート

マンスリーレポート

2008年09月

「責任者(論)」

 

個人的なことですが41歳になりました。
昨年の今頃は孔子「四十にして惑わず」を引用して、はなはだ「惑」だらけである自分を自覚したわけですが、その状態は今でも変わりないような気がします。
気がしますが、時間は待ってくれず早一年です。
確か私が24歳くらいの頃でしょうか?
社会人新人の頃飛び込み営業を果敢にやっていた頃に知り合った(というか会ってもらえた)資産家のお医者さんから進められた本が「41歳寿命説」
その頃この本を読んで衝撃を受けたことを覚えています。
日本の今(当時1992年頃)の食生活や環境のありかたを見れば、これからは昔のような長生きすることは出来ないという警鐘を促したような内容でした。
考えてみると、「食」「環境」の問題は今とても盛んに行われている世界的なテーマでもありますので、そういった意味では著者は20年近く前からこの問題について見てきているというところではとても先見の明があったといえるかもしれません。
一方で日本人の寿命ですが、41歳どころか、今や80歳を越えてきています。
説と現実に結果として乖離があった訳ですが、まあそれはそれとしてその頃私はその内容にも納得感を持ち(詳しいことは忘れましたが)、自分自身であと生きられる期間を考え、すこし焦燥感を感じた記憶がありますが、まさに今その頃の“ゴールになるのではないかなあ~”と考えた歳を迎えました。
ところが今、ゴールどころか、私の中では折り返し地点にまですら行き着いていない、そんな心境です。
良い言い方?をすれば、“成長意欲が高い(と思い込んでいる)”、悪い?言い方をすると、“自分の能力を過信している”・・のではないかと切に感じている次第です。
ところでホロニック社が創業されて10年近くが経ちましたが、最近の世の中の動き、流れを見ながら感じていることがひとつ。
「責任を取る」ということは一体どういくことなのだろうかというテーマ
広辞苑によるとその意味は
① 引き受けて果たさなければならない任務、またその行為の結果を引き受けること
② 行為の結果による不利益や制裁を負担すること
この2つの意味には違いがあるような気がします。
①はこれから起きること(起こすこと)に対するアプローチ
②はもう起きたことに対するアプローチ
先般、わが国の首相が責任をとって内閣総理大臣の職を辞任表明しました。
この責任は後者、起きたことに対する責任
それについて私自身考えて、結構考えました
「辞めること」は責任を取るということになるのかと・・
オリンピックの野球監督の星野監督の敗戦の弁
「選手でなく私の責任です」
これは何の責任なのか、誰に対しての責任で、その責任を取るということはどういうことなのだろうか・・・と
福田首相も(前任の安倍首相も)首相を辞めただけで、国会議員を辞めるわけでもなく、星野監督も国民の期待に応えられなかったことを公の場で謝っただけです。
子供の頃によく冗談で「謝って済めば警察は必要ないんだよ!」とか言っていましたが、謝ったらとりあえず責任取ったといえるのでしょうか?
今問題になっている相撲界
これも北の海理事長の責任問題が勃発しておりますが、これは何に対して相撲協会の理事長が責任を取るということになるのだろうか、また後任の理事長は何に対して責任を果たすことが役割になるのだろうか、私にとってはいささか微妙にわかりにくい問題です。
が、別のあり方でこの相撲界においては私自身小さい頃に聞き知らされたことで、これには何となく「責任」という意味では納得感があることがあります、それは・・・
「横綱は辞める時期は自身で決める、そして辞めることは土俵を去るということ」
そう大関まではカド番(2回負け越したら大関陥落)とか、仮にそうなっても相撲をやり続けることは出来るというルールがあります。
横綱の場合はそれが許されません。
それが横綱の責任ということでしょうか
それには何となく腑に落ちるところがあるのです。
会社の経営でもそうです
任期が満了、もしくは健康上の理由などで業務執行が出来なくなったことではなく、今の事態を収拾出来ないからといって社長の役割を辞退した場合、その会社に留まることなど出来ません。
倫理的に見てもそんなことは常識的なことではないでしょうか?
福田首相の場合、首相に選任された頃「これまでに一度たりとも首相になりたいと思ったことはない、しかし今の政局、これからのわが国を見据えた時、まわりの声が自分に上がってくるに対してやらなくてはいけないと思って決断した」ということを言っていて、それはある意味「使命感」を感じての決断だったのかと思います。
しかし、その一年後「今の政局、これからの日本を見据えたら自分ではない方がよいのではないか」と、挙句の果てには「私は自分を客観視出来る、あなたとは違う」と1人の記者に対して声を荒げる、一国の首相がです・・・
さらにはその後の総裁選を高みの見物かとごとく「しっかり政策論争して欲しい」と・・・
本当に自分を客観視出来ているのであろうかと疑いたくなりました。
しかしよくよく考えると、一国の長を嘆く国民、当然その内の一人である私も、ぼやき、嘆きを言っていること自体虚しくもなり、そう突き詰めていくと国民にもいわゆる「任命責任」というのがあるのではないだろうかなと本気で思いました。
民主党が今の総裁選争いに対して、そもそも自民党にはこうなった(こんな酷い国になった)「製造責任がある」と意気揚々と言っておりましたが、ではあなた方にもこんな政局、政治システムになっている製造責任はないのかと言いたいし、この民主党の論で言えば、そもそも行き着くところ国民による政治家の「任命責任」というところまで行くのではないかと・・。
さすがに、少なくても今の時点で政党として責任を負っていない野党の方にそう言われても何とも実感も沸きませんし、そのような政党にも期待は出来るとは到底思えませんね・・・・
と言いながらも、選挙に絶望感、もしくは枯渇感、はたまた無関心に陥らしたのは、今の政治家や今の社会構造かもしれませんが、一方で陥ったのは国民自身です。
恥ずかしいのは国民ひとりひとりの意識そのものなのではないのでと痛感します。
これはあくまでも国の運営、つまり政策についての価値観の違いを問うているわけではなく、責任に対する意識の乖離、そう会社で言うと「経営者や幹部や社員などとの間にある意識の乖離」と同じように「国の経営者と国民との意識の乖離」がかなり稚拙なレベルで露呈されたような気がしてむしろ一国民である自分が恥ずかしくなってきたということです。
そして改めて、自分は少なくてもホロニック社という会社内での責任をきちんとトップとして果たしているのだろうか、またホロニックは社会に対してきちんと責任や使命を持って存在出来ているのであろうか。
そんなこともよく考える機会になったような気がします。
今、学園もののドラマが月9でやっています(織田裕二主演の)
そこで印象深いセリフがありました。
怪我を負って救急に治療が必要な生徒を前にして、医療行為さながらの処置を施そうとする織田裕二扮する熱血教師に対して、
「そんなことして、先生は責任取れるんですか!!」と
凄んで話す保守的な教師に対して
「責任だと? 責任というのは何か起きてから取るものでなく、起きる前に行動することだ!」
まさにこの教師は広辞苑で言う(上記で言う)①を礼賛する人なのでしょう。
最近までやっていた「ラストゲーム 最後の早慶戦」という映画があります。
第二次大戦中に戦局が悪化する日本で一般学生も戦地へ赴く事態をいよいよ迎え、戦地に行く学
生に最後の思い出として早慶戦をやろうという早稲田大学と慶応大学をテーマにした映画です。
そんな非常事態に対して野球なんてやるのは言語道断といって認めない早稲田大学総長に対して、懇願行脚を繰り返す柄本明扮する野球部顧問が最後の最後に許可なくても断行することを決断する、激高する総長に対して「私の命に代えても!!・・・」と引かない顧問
そんなシーンがありましたが、それを見て、上記の織田裕二も同様「退路を断って、目の前の全てのものに対して覚悟を決める」ということが責任を取るということなのではないかと強く思いました。
そう考えると「極限」に置かれた立場からしか覚悟は生まれないし、そう考えると「責任を取る」ということは本当に難しいことなのだと思います。
私自身も会社の「責任者」として、この「責任」という概念をもっと深く捉えていかなければいけないと感じます。
言わずもがな、誰かにその責を問われることがあっても、決して冒頭のお二方のように「過去」と「他(人)」に矛先を向けないようにしなくては・・・と切実に思うところです。
 
長田 一郎