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マンスリーレポート

2012年10月

「経営体験発表 其のⅢ」

 

私が所属する、盛和塾という経営者が集まる塾で私の経営体験を発表させていただきました!
自分自身を振り返り、気づきが多いとてもよい機会であると共に、深堀することで、大変反省することが多いです
皆さん、ホロニックという会社に所属しています
その所属している会社を創業、創立した私がこれまでどんな歩みをしてきたか、かなり箸折ってはいますが(それでもかなりのボリュームの原稿になりました)今いちど共有していただき、「社長ってこんなやつだったんだ!」ということが少しでも伝われば、そしてそれによって所属意識、また自身の成長意欲につながってくることがあればこの上ないことだと思います
なにとぞおつきあいください!
<わが社の事業内容 >
私が31歳の頃、1999年1月ホロニック社を設立、創業しました
ホロニックの語源は「全体(HOL)と子(ON)を組み合わせた全体子」、
それぞれが自立した「個」が組み合わさって「全体」(組織)として調和しているという意味で、個人の自発性の原動力が集まって全体として調和、最適化される組織を目指したい。
そういった私自身の組織観に従って社名をつけました
経営理念
人々の生活環境の充実、生活感度の向上を目指し「良質の社会創り」に貢献します
企業ビジョン
ホテル業等を通じて人々とのつながりを創り、絆を深め、共感の輪を広げる
コミュニティ創造企業を目指します
事業領域
コミュニティ型ホテル及び関連施設の経営・運営
私どもは「コミュニティ型ホテルの経営及び運営再生事業」を行っております。
ホテル業といえば、ありとあらゆる人を対象にする「都市型シティホテル」、出張者などに特化した「ビジネスホテル」、旅行客を相手にした「リゾートホテル」「旅館」などがイメージされると思います。
その中で、当社は「地域の生活者にとってのコミュニティプラザ」的なホテル
当初、「コミュニティ=地域密着」と定義づけて、その地域に住む人や働く人に利用されたり、関わることに意義を見いだそうとしてその分野に特化し、他のホテル運営会社と差別化できるように展開してきました。
2009年には社団法人関西ニュービジネス協議会様より「ニュービジネス大賞」というのを受賞いたしました
成熟産業であるホテル業の中で「ニュービジネス」という評価をいただいたのは、おそらくホテル業を通じて地域資源や地域社会を活性化させるという切り口、いわば「コミュニティを重視したホテル業の可能性」が評価のポイントだったのではないかと感じています。
しかしそれ以降、自身の経営観を振り返り、自分が目指す方向はそもそもホテル業なのかコミュニティ業なのか、またコミュニティというもののその本質は何なのか(「地域」といった「地縁のつながり」だけがコミュニティなのか?)それがどう社会に貢献していくことにつながっていくのか、そしてなぜ自分はそれを志向しているのか・・・を真剣にとらえ考えるようなりました、そしてこれは今も日々問いかけ続けています。
ホテル業を通じて”コミュニティを創る“そしてコミュニティ創りを通じて“豊かな社会”を実現していきたいというビジョンをどう具現化する、そのための事業モデルをどう構築するかということが私にとっての大きなテーマになっています
<私の経営者としての歩み>
=幼少時代=
私は1967年(昭和42年)に神奈川県で生まれました。
父は山梨の大家族農家出身で9人兄弟の末から2番目で、唯一大学を出してもらったそうです。
そもそもは零細企業のオーナーに請われ入社、私が物心つくころにはそれがサウナや暖炉を輸入する中小商社になり課長、その後部長、専務、そして私が10歳の頃には社長になっておりました。
派手ではありませんがそれでも引越しなど繰り返し生活環境が年々良くなっていく状態を目の当たりしていました。
そういった意味で幼少時代からの生活の変遷から、成り上がっていく父、新しい市場(ビジネス)を切り拓き、会社を大きくしていく姿に対する憧れや尊敬の気持ちがあったのだと思います。
それが将来は会社の経営者になることを私に自然に意識させていたのかもしれません。
しかし、子供の頃からそのような経営者になることを薦めたり、何か強制したりされた記憶はありません。
とても伸び伸びと、いい言い方をすれば自主性重視、自由奔放で育てられたように思います。
その代わり、自分の決めたこと、やることに責任を持つことを言葉少ない中にも教えられていたような気がします。
=学生時代 ~独立することへの憧れ~ =
私は小中高校を通じて、一貫して普通、勉強も普通、運動部でしたが特筆する立場で活躍するこ
ともなく、リーダーシップを発揮する目立つ存在でもなく、かといって目立たないわけでもない、そんな普通の少年時代を送っていました。
環境変化に富んだ家庭ではありましたが、私は一貫として「普通の人」でした
それが、「普通であることのコンプレックス」もあってか、友人などは「変わり者」が多く、そんな自分が“自分らしい”(これは今でも?)と思っていたような気がします
大学は京都の同志社大学に進みました
そこで“普通な自分”が向かった方向は「勉学」ではなく「会社ごっこ」でした。
1988年当時バブル真只中、学生がディスコなどを貸し切ってパーティをしたり、その集客のために企業のスポンサーを取ったり、といった活動が盛んだったこともあり、私もその渦中で他の学生とは違う生活、またそれを通じて将来何か独立したい、仲間や先輩の中にも起業したりする人が居て、”業を興すことが恰好いい!と思っていました。アルバイトも飲食店から佐川急便やら政治家の事務所、ベンチャー会社など多岐に及んでやっておりましたが、それも何か色々な人と出会うことが好きだったり、将来何か商売するための人脈形成的な(今思えば浅はかな)動機があったのかもしれません
=社会人として= ~業を興すことへの想いへ~
将来の独立という思いは父への憧憬もあったのでしょうし、にもかかわらず自分自身が特段個性のある自分でないことへのどこかコンプレックスがあったのだと思います。
それが「何か自分でやりたい!」という想いを強くしていったのだと思います。
しかし当時、就職先に困る時代ではありませんでしたので、また生意気にも一旦は大企業に就職してもよいか思って、結果社会人のスタートは、大和證券という証券業界に進むことを選択しました。平成3年のことです
当時証券不祥事などが明るみに出たり、業界最大手の野村證券が「ノルマ証券」と言われるような厳しい業界だということを聞かされたりしていました。
しかし逆に短期間で自分を磨くことが出来うる、そして人脈を増やすのに最適だとめでたく勝手に解釈してその世界に入りました。
3年間お世話になりましたが、そこで学んだことは「数字が人格という世界観」、そして「大企業の組織論理」・・しかし肝心の「金融スキル」は大して身に付く事は出来ませんでした。
それでも証券業界に居たことで新しい産業が世の中に出てくるシーンを間近で見ることが出来ました、
KDDI当時の第二電電も上場した頃でした、今でこそほぼ吸収されてしまいましたが、消費者金融業界などが、バブル崩壊後に上場されるなど、いわゆる「新たな市場・新しい産業」が出てくることへの自身の「高揚感」、「挑戦心」みたいなものが出てきたような気がします。
その一方で「数字が人格」かの如くの営業活動を通じていわゆる優秀な先輩、同僚たちがなぜか覇気がうせ、働き甲斐をなくしてしまうような状況を垣間見ました。
若手の私は先輩や上司の仕事のストレスのはけぐちにされたりしていました。
また近くの赤提灯などに行っても、会社や上司や部下の愚痴を言っているようなビジネスマンに
溢れていました。
そんなシーンを見ながら客観的に、ビジネスマンのやりがい、働きがいが向上する環境があればもっと社会が豊かになるのではないか、もっといえば「人々がやりがい、いきがい、働きがいを持てるような社会をつくる」また「やりがい、いきがい、働きがいを持てる人をつくる」ことで世の中とてもよくなるのではないか・・・・そんなビジネスニーズがあるのではないかと稚拙ながら考え願望が膨らんできました。
今の事業で「生活環境の充実、生活感度の向上」ということをライフワークにしようとしたそもそもの発想はそこから来ているのだと思います。
平成6年、26歳の時前職のプラン・ドゥ・シーというベンチャー企業に誘いを受け転職しました。
転職といっても私の高校時代の親友が立ち上げたブライダルのプロデュース会社で、今や学生の就職希望ランキング上位に来るような人気企業になりましたが当時、社員は社長以外私だけ、あとは2~3人のアルバイトのいわばサークル活動の延長のような会社でした。
その時は「オフィス環境をよくするコンサル的事業を立ち上げる」つもりで入社しましたがそんなことが出来る余裕もありませんでしたし、またどうやってそんな商売ができるのかすらわかりませんでした。
結局、当初から、会社に資金がないことがわかり、しばらく一年くらいは“資金繰り”というか“お金集め”に必死にある毎日を過ごすことになりました。
まさに自転車操業とはこのことで、明日の売上を明後日の支払いや給与にあてがい、次の経費の支払い期日までに売上を上げる、銀行は、都市銀行はおろか信用組合やその他金融会社にまで鼻で笑われる始末でした。
無理やり収入を増やすためにパーティを主催したり、夏場には海に行ってテキヤみたいなことをしたりして奔走する日々が一年間くらい続きました。
出来ることは何でもやりましたが、傍からみていると遊んでいるようにしか見えなかったのでしょう。
ある日父から「お前は一体何やっているのだ」と聞かれ自分なりに説明し、これからの想いなどを話しているうちに「そんなもの事業にならん」といわれ、売り言葉に買い言葉で「そんなことやってみなければわからないだろ!」と言うと、最後ひと言「26歳になって大学まで出ておいて、それなりの企業にいた挙句、やってみなければわからないなどと幼稚なこと言うな!そこまで生きてきているならやってみなくてもわかるくらいの見識持て!」といわれ撃沈しました。
自分の浅はかさに心の底から気付かされました。
そうこうしているうちに、ブライダルの現場にも携わるようになりました。
当時、結婚式といえばホテルか結婚式場、ガチガチの自由度のない、お仕着せのサービスを提供している業界でした。
その先達によってつくられた風習の元に業界の常識が形成されていました。
「こんなのでいいのか!」「そんなのおかしい!」そんな気概や気構えでこの事業にのめり込みました。
また当時、バブルの名残で各地に遊休店舗、遊休地、また高級住宅街などに資産家の別邸などが空き家でゴロゴロありました。
飲食店であれば駅前など繁華街が好立地といわれますが、当時私たちが提唱した新しいブライダルのスタイルと言えば、「貸し切り」「オリジナル」といったことがキーワードでした
空き家の豪邸を有効活用する術としてブライダル事業は最適だったのです。
見事に時代や業界の新しい流れに乗って当たりました。
また証券会社時代には体験しなかった「お金を頂いてありがとうと言われる」
そんな素晴らしい仕事を振り出しに、私の事業感が芽生えました。
この間5年、「独立すること」への憧れは消え、何か「業」をつくりたいと思うようになりました。
しかし、このままであれば社長の「私業」を支えることになるのでないか、自分のやりたいことはそうではないのではないかと思うようになりました。
個性強い社長(友人)と共に歩む中で、自分でやってみたい気持ちと、個性で引っ張るワンマン手法に対する自分なりのそんなじくちたる思いがあったのかもしれません
1999年(平成11年)に前職を退職し、31歳で現在のホロニックを設立しました。
<創業後 ~私が遭遇した困難な出来事とその対応 =業をつくることが目的へ=~ >
新会社は前職から引き継いだ結婚式場(神戸御影にある蘇州園)を運営するところから私含めた5名の社員から始まりました。
少子化などの社会傾向からブライダル業の将来性に懐疑的であったので、それ以外の事業を展開することを考ました。
当時神戸の観光名所でもある北野町では空店舗なども多く、オーナーさんがその活用に苦慮していたことから、「店舗再生ビジネス」と称し、運営を受託していきました。
一度ダメになったような店を居抜きなどで受託していきますので、大きな投資は要りません。
また、経営や運営に困った施設だけに我々が取り組む際にもリスクが少なく関われます。
なので、大きな失敗もありませんでしたが、一旦ダメになった施設を何のノウハウなく、勢いだけで大きく成功させることもできるはずもありません。
やがて店やスタッフだけは増えていきましたが、利益もわずか、挙句の果てには「何屋かわからん!」といった状態になりました。
そして2~3年経って気付いた頃には全ての事業が中途半端になり、主力であるブライダル事業までも中途半端になってきました。
一方、前職の頃から共に事業をやってきた同業経営者達は、ブライダル事業に経営資源を集中しながら着実に事業を伸ばしておりました。
自身の経営判断から「かつての先駆け会社」だったものが「出遅れ会社」に陥っていました。
大変焦っておりました。
そして創業5年目、それまでやっていた細々としている事業をやめ「ブライダルを主体にしたホテルの運営業」を目指すことで舵を切ることにしました。
これからブライダル事業だけに戻ってやるのは大変、だけどブライダル事業以外でうまくいっているものはない・・・そんなジレンマの中で何か違う切り口を求めていった結果、そうなっていったのだと思います。
2003年当時、ITバブルが起きていた頃、外資系の投資会社などが破たんした、ホテルや旅館、ゴルフ場などを買いあさっていた頃でした。
で、当初私たちはそんなニーズがあると思って、ホテル運営の実績がないにも関わらず「ホテル再生事業会社」と謳いながら金融機関、不動産会社、投資会社、ファンド、サービサーなどをくまなくまわりました。
しかし実績のない会社に簡単に運営を任すわけもありません。
そんな頃廃業したホテルの買収の話が持ち上がりました。
それが今の当社の主力ホテルである、神戸舞子にあります「ホテルセトレ」です。
ロケーション、立地などは言うことなしでしたが、所有者や経営者などのトラブルで社会問題になっていて、当時は廃墟になっておりました。
それでも様々な諸条件を満たしながら購入することが出来ました。
その当時の会社の売上が3億超、ホテルの買い取り金額が3億5000万円でした。
改修費などを合わせると10億近くのお金がかかり、それを全額借金しました。
今思えば、ホテル物件そのもの担保があったとはいえ、銀行はそんな会社によく貸し付けてくれたと思います。
常識的に考えると自己資本も自己資金もない会社がホテルを所有するなど無謀な話しでありました。
しかしその時はまず「業をつくる」ことに必死でしたから全くそのリスクを頭にありませんでした。
今思えば相当常軌を逸した決断だったのだと思います
2005年(平成17年)4月に開業しました、が案の定お祝い気分も束の間早々から資金繰りとの戦いでした。
いきなり、資金は底つく寸前、もはや金融機関も追加融資などありませんでした。
同時に、関係者やベンチャーキャピタルなどに出資を仰ぐ動きを進めていましたが、それもなかなかうまくいかず悶々とした日々が続きました。
開業後でも引き続き新築建造中だった結婚式場を執り行うチャペルが完成していく姿を見ながら、完成すれば集客も増え、売上があげられる(というか完成しなければ商売出来ない)というスタッフ共々の期待や抑揚感の一方で、完成すればその施工費を支払わなくてはいけない(支払資金がない)という状況はまさに「股裂き」にあったような心境でした
「股裂き」といえばもうひとつ、出資検討いただいている最中に、新たな泉大津にある再生要す
るホテル受託のお話がありました
それを受託することでホロ社の可能性評価を上げられるため出資決定に有利とVC担当者に言われました、しかしその案件は赤字でした。
この状況で赤字事業を引き継ぐなど無謀の上無謀です、がしかしそれを引き継がないことで出資を得られなければどちらにしても一貫の終わりでした。
事前に試泊させてもらったとき、夜部屋から眺められる駅周辺の閑散さ具合を見て、本当に背筋が寒くなり、強烈な恐怖を覚えました。
まさに究極の選択を強いられていました
またその頃、懐にいつも資金繰り表を入れ、何度見ても変わらないその紙をじっと見詰めることがよくありました。
夜家に帰って女房、2歳と生後間もない2人の子供の顔見て、彼女たちが元気な姿を見るほどつらくこのまま会社が潰れたら、社員はもちろん、連帯保証にも入れているかみさんは・・またこの子供たちはどうなるのかと思うと用事がなくても子供が寝ている時間まで家に帰らず、朝は起きる前には会社に行くといった毎日が3ヶ月くらい続きました。
身売り話もありましたし、リスケ、法的整理、倒産などが頭によぎる毎日でした。
そして、おカネで困窮する中で、さらに仮にこのお金の問題が解決したら果たしてモノゴト全てが解決するのだろうか・・・と。
そう思うとさらにもっと真っ暗になりました。
社員が疲弊していることに気付かず、会社を辞めていく人が続出していました。
結局その時「お金」ではなく「人材」の大切さを本当に目の当たりにしました。
大変煮詰まっていました。
そんな頃に「社長は社員にありがとうとひと言でも言ったことがありますか?それだけでどれだけ彼らが救われるか」
その年の7月に、元社員で、今、リグア社という会社の社長をしている川瀬さんに言われました。
その一言でそれまで悶々としていたことが吹っ切れたことを記憶しています。
それまで自分のブレた事業欲で社員を犠牲にしていたことなどまったく頭にありませんでした
もっといえば、「自分の人生は誰も責任を取らない、仕事をする社員もそうだ、だから会社のために仕事をするのでなく、自分のため、そのためには会社だって手段なのだ」と最もらしいことを豪語していました
今思えば大変恥ずかしいことですが、実際そんな自分を変えられませんでした。
しかしその時はなぜか、ふっと川瀬さんの言葉を受け止めることが出来ました。
後日の本人談ですが、元居た会社の社長に物申すことには相当覚悟と勇気があったようです。
それをきっかけにそれまで判断しかねていたことを実行する決断をその日、その場ですることが出来ました。
そのひとつが泉大津のホテル受託の決断でした、そしてそれに伴ってこれまでの自分の人生やったことのなかった、出来なかったことをすることが出来ました。
ひとつは社員にこれまでの自分を謝り、この窮地に皆さんの力を貸してほしいと頼むこと、そのために1人ずつに手紙を書いて「ありがとう」と伝えること。
ひとつは、今やっているホテル業以外のレストランやらカフェやらの諸々の事業を全て撤退すること。
それが私にとって大きな転機になりました。
その話をして社員の皆に理解を請いました。
涙する社員もおりました。
半年前に自らが辞めさせた社員に頭を下げて戻ってきてもらいました。
今必要なのは「経験や技術」ではなく「スピリッツ」なのだと言いました。
その時、同時にリクルートに勤める私の大学時代の親友に、経営の参画をお願いしました
“自分が社長でなくても、負債を全部私が負うから、この会社の存続と社員を守ることにベストを尽くしたい”と言いました。
その時言われました「俺で出来ることは何でもやるけど、この会社の社長はお前じゃなきゃいけない!メンバー達はお前についてきているんだ!」と・・・・涙が出ました!
その時は本当に、自分はどうなっても身売りでも何でもいいからこの会社と社員だけは守らなければいけないと心の底から思えました
この時の心境は、うまく表現できませんが、私心は一切消えていたように思います。
そのような出来事などが、きっかけかどうかはわかりませんが、その後出資を仰ぐこともできました、ジャフコの担当者、金沢さん(VC)には本当に感謝しています。
そして今日、会社が継続できるていることに感謝しています
そして何よりもですが、社員の皆への感謝です!
社員に「謝る」とか「力を貸してほしい」なんていうことを社長の私がすることで、社員がより不安になるのではないか、加えて自分がそんな失態を表すことで幻滅されるのでないか・・という不安がありました
しかしその思い込みは全く逆でした
逆に「頑張ります!」という奮起の空気が多く、それには大変励まされました
そしてそれまでの自分の考え方を悔い改めることができました
本当に嬉しかったです!
後にも先にも、自分が経営をして何よりうれしかったのはその時だったと思います
身の程知らずの行動や決断が状態をおかしくしました、またそれによって多くの犠牲が出ました。
創業当初からの6年間でやってきた事業は今ありませんし、失敗などで撤退した店舗や事業は10指では足りません。
創業メンバー含め、それまでの期間、共にやってきたメンバーはほとんどおりません。
それもこれも人材という財産をないがしろにしていた結果です。
また一方その犠牲になった人たちによって自分自身が転換することが出来ました。
そう考えると当時の社員に対して謝罪と感謝の気持ちで一杯です。
それでもその頃、私に付き合って残ってくれているメンバーが今も居ます。
彼らは今ホロニックを支える幹部となって会社の屋台骨になって活躍してくれています
その時の手紙をいまだ、大切に保管してくれている社員の人たちも多いようです!
これも感謝!、大変ありがたいことです!
その頃、「経営者の責任」というものをはじめて意識しました
そして「今後は(可能な限り)人はやめさせてはいけない!」と決めました
それまでの諸々の私の失敗や失態が、今の礎になっていることは間違いないと思っております。
<私が心に抱いた強烈な願望とその結果>
ブライダル事業から、ホテル事業へ転換し、そのホテル業の中でもいわゆる地域密着型のコミュニティ型ホテル」に特化しようとしました。
それは、新しい事業モデルを創って、新しい市場を創りたいという気持ちと、人々の生活環境をよくすることで豊かな社会、やりがいや生きがいを持てる社会にしたい、といった2つの願望があってそれを充たす事業だと考えたからです。
それは2005年の舞子セトレを開業してから、より明確になってきました。
地域型のホテルをそこに住む人たちの「憩いの場」、そういった意味では地域密着ホテルの社会的意義は高いのではないかと思いました。
そして全国など見回してみると、10万人以上住むような市町村には必ずといっていいほど地元ホテルがあり、それらおおよそが行政主体か地元名士の方が造ったホテルでした。
ゆえに?経営が厳しいものが多くそれらを受託していくことが「よいビジネス」だと思いました。
しかも、運営現場を通じて感じることは、病院や公民館などといった存在と同じような「地域にとっては貴重な社会的インフラ」いわば「おらが町のホテル」ですから、それらを維持させていくことは地域社会にとって大きな意義があることなのではないかということです。
当時、その2つの現象が私の事業願望を強くしました
「このホテルは我々にとっては必要なんや、何とか君達で活気を取り戻してや!」と地元のお客様に言われるととても「意義ある仕事をしている」と感じました
人同士の交流やつながりを深めていくための場をつくっていくことはこれからの地域社会にとって必要で意義あることではないかと思いました。
そういった意味で私たちは「地域型ホテル」の運営を通じて「きずな」「つながり」を提供出来る場を築いていきたいと思っています・・・というか思っていました!
それが2年前2010年春、盛和塾の矢崎代表(フェリシモ会長)からいただいた言葉から私のホテル業に対する姿勢が少し(大きく?)変化しました。
<稲盛哲学からの学びと実践とその結果>
3年前2009年4月に京セラの創業者で、最近ではJALの再生を見事に果たしたといわれる稲盛和夫氏の主催する盛和塾に入塾いたしました
最初は異業種交流の類のつもりでしたが、それが即打ちひしがれました
人脈を増やしたり、自社施設の営業にもなるんじゃないかなあ~などとも思っていましたがダメ
少し経って、きちんと勉強するつもりで行こうとしましたがこの感覚もダメでした
ここは「道場」といわれているように、講演を聞きにくる場でもなければ、「術を磨く場」でもなく「道を究める」ための場なのであって、そんな同志が集まって未来を拓く場なのだと気づくのにも随分時間がかかりました
入塾間もない3年前に経営体験発表をさせていただき、矢崎前代表から「あなたは経営をしていない!」と一刀両断でした!
なんのことか訳がわかりませんした
その頃、ホテル再生事業、その中でも「地域コミュニティ型ホテルの運営会社」ということで自社の存在意義を出そうとしておりました、そういった意味から、リスクを追って事業に取り組み、ファンド会社からの受託やホテル会社のM&Aなどやってきました。
「業を創るための手段のひとつ」として上場の準備もしていました
運営現場に身を置きながら、集客活動、またリピートしていただく手立て、お客様を固有名詞で呼びあえるような触れ合いを求めていく中で「コミュニティ型ホテル」というキーワードに至っていました。そんな矢先で、「経営をしていない!」とは・・思いがけなく鈍器でたたかれたような指摘でした。
思い上がっていたのでしょうけど、それでも何か釈然としないまま、その数か月後に再度発表の機会(勝己の友という冊子は当時の社員の皆さんに配りました 参照)をいただきました。
その時ようやく、気づきを得ました。
=事業の目的・意義を明確にする=
矢崎代表から、「あなたの経営は「ハコ」としてのホテル業に囚われている、コミュニティとかなんとかいいながら、全部「ハコ」をどうするかといった「術」のレベルでないかと思う」
と言われました
全くその通りでした
「サービス業は人がすべて!」と言いながら、結局「ハコモノ」というハードをどうまわすか、そのための手段としてヒト(という人材)を利用し、またお客さんというヒトもハコを埋めるための手段としている、もっといえば地域コミュニティの貢献と言いながら、そのようなコミュニティもハコを埋めるための耳障りのよい手段にしていたような自分に気づかされました。
そのとき矢崎代表は、フェリシモの「超・店舗」という概念をお話しされ、またJALを「飛行機会社」でなく「世界や未来への廊下」と表現されました。
それを伺って、私は「ホテル(というハード)は“舞台装置”」とみると、コミュニティ創りという本来の目的に広がりが出てくるのだというように考えることができるようになりました!
私のそれまでの事業観はすべて「術」でした
どうやったら受けるか(売れるか)、どうやったら達成できるか、どうしたら市場を創れるか・・・・
そしてすべて自分の事業欲だけでした
どうしたら成功するのか、いい会社になるのか、大きい会社になるのか、世の中に認められるようになるのか・・・
さらに“社員は会社を活用すべき”というそれらしい風の思想?のもと「権限委譲という耳あたりの良い“丸投げ””放任“」を行い「独立する奴こそが優秀な人材」などと豪語していたわけです
そこに社長としての私の明確な会社の指針・方針などありませんでした。
あったような気もしますが、今思うとかなり薄っぺらい、無いに等しいものです
今でも社内で議論になりますが「コミュニティ創り」と謳いながら、自社内のコミュニティすらままならない、つまり「目的や意義」が共有されていないのはやはり私自身がまったく希薄な理念にとどまっているからに他ならないのではないかと思いました。
自分自身の人格を磨くことで、理念を高める、そして高め続けていくことが経営者には不可欠な責任なのではないかと思っています!
「ホテル(ハード=舞台装置)=手段 」「人(ソフト)=目的」とすると、私たちはホテルという場所の“貸し屋”でなく、コミュニティという集いやつながりのある機会を作り出す「超・店舗(ホテル)」企業でなくてはいけないことに気づき、それを実践しはじめました
それが約2年前、2010年のことでした。
それから私たちは「場所を提供する者」でなく「場面を創る者」というように考えるようになりました。
すると「コミュニティ」という言葉や概念も地域共同体といった「地縁」だけにとどまったりこだわりすぎるのでなく、趣味や目的価値観でつながった縁も「コミュニティ」と定義することが出来ました。
最近すっかり社会に定着したソーシャルメディアなどでも「繋がる」ことが「コミュニティ」と表現されるようにもなりました。
とすると私自身が地域、またホテルといった業態だけに囚われすぎていたのだと感じました。
「ホテル運営会社として社会的地位を上げる、その場に自分達が必要とされるようにしよう!」
と当時声を出して言っていたことは、今、それも手段になりました
そして永続的なホテルの支持者を増やすべくファン、またファンをも越えるいわゆるサポーター的な「参画者」をたくさんつくっていくことでコミュニティを形成しいくことです。
お客様がモニターになってもらって新メニューを決めることに参画してもらったり・・・
ホテルで使っている野菜の生産者の元を訪れて収穫するツアーを組んだり・・・
会員さんと「山に登る会」を立ち上げて一緒に繰り出したり・・・・
うちで挙式を上げてくださったカップルを定期的に招いて担当者と共に騒ぐ?企画を組んで絆づくりをはかったり・・
サークルのような活動や集団(集会)をたくさんつくることで、私たちとお客様との関係(B TO C)だけでなくお客様同士の共感(C WITH C)といった関係性も生まれます
おかげ?でホテルや施設の直接売り上げにつながるわけではない企画を企てるスタッフが増えてくるという現象が起きています!
しかし、即時に売上にならなくても、そのようなつながりづくりを通じて、お客さんが、その友人を連れてきてくれたり、お客さん同士が共感の輪でつながるシーンを社員ひとりひとりが主体的に考え、動き、そして築き上げていくこと売上や集客につながる活動なのだと思います。
「コミュニティ創り」を通じて「人々がやりがい、いきがい、働きがいを持てる社会を創る」、そんな「甲斐」を持てる人たちで構成された社会こそが、「活力ある地域、豊かな社会」につながっていき、ひいては国や人類をよくする「良質な社会」につながっていくのではないかと思っています
=売上を最大限に経費最小限に=
ホテル事業を始めて、今日に至るまで、売上は上がりました、が・・利益が伴っていません
しかも売上は私たちの場合「出店する」ことで積み上げることが出来ます、それはすなわち「カネ」や「ヒト」が“調達”さえできればひとまずはかないます。
しかし、借りたカネは返さなければいけませんし、ヒトも機械の代替のごとく、「人の手」程度の扱いであればそれは価値を高めることなど出来ません
それこそそんな当たり前の原理原則が私には欠けていました。
日々現場では、原価率や運営コストのことはみな意識してやってくれてはいます。
しかし、それをいうあまり売上の取り扱いを嵩上げするために値引きをしたり、原価等費用を落とすことが目的化して、価値を売上に転化する発想がなくなっていきました。
利益が伴っていかないのは「社内の体質」そのものなのだと思いました。
売上が上がらなければ利益も出せない、社内体質づくりのためにはそれなりにコストがかかり、そのコストを吸収するためには収入である売上を増やしていかねばならない!という思想に偏重していました。
社長である私の甘えが、売上を上げることに偏り、利益を出すことにどこかないがしろにしていました。
今年のはじめに、どんな拍子だったか、全体の方針会議の際にこの「売上最大限に、経費最小限に」という言葉を使っていました。
そこでこんなことを言いました。
「経費を抑えることはコストを削減する努力をすることだけにとどまらず、価値を高める、つまり原価というモノによってでなく、ソフト面、私たちでいうモノの原価のかからない「サービス力、企画力」で魅力を高めることでかなう、魅力が高まって付加価値があがれば、原価の率が下がる、すなわち経費は抑えられる、それに加えて魅力が高まれば自ずと売上が上がるんだ!」と
私たちは対面接客業ですから、それはヒトの力、まさに「人手」でなく「人材」としてのヒトの力で原価は運営にかかわる費用をはるかに超える付加価値=魅力を上げていかなければ存在意義はありません。
だから
売上を最大限にすることと、経費を最小限にすることは矛盾した取組をするのでなく、つながっているものだと、そんな考えを声を大にして皆に伝え、自分にも強烈に言い聞かせ、全社に浸透させることで社風、企業体質が劇的に変わってくるのだと信じて今社内で取り組んでいます
=燃える闘魂=
「今の自分の商売を愛されていますか?」と同じ経営者さんの方にいわれました。
自ら創業した会社ですから、その問いかけに否定形はありえません
が、創業当初を思い返ってみると、ヒトにもモノにも、今よりはるかに細かなところまで気を配っていたように思います
今が「魂籠っていない」とは思っていませんが、しかし、ヒトが増えたり、事業所が増えてくるにつれて、「人に任せて」いきました、が、それは「任せた」のでなく「投げていった」のだと反省しました。
人生かけてまでリスク追って、はじめた事業、しかもハコモノであるホテルの設備すら磨かないのは、毎日顔や葉を洗わないで人と対面しているようなものです。
稲盛塾長がJALをこれだけ短い期間の回復に至らした大きな要因は、自身自ら膝詰で、あれだけ多くの社員ひとりひとりに理念を語り続けたことだといわれています
あれだけ多くの社員をあれだけ短期間の間で体質を変えられた塾長が日経トップリーダーの記事で「俺が中小企業の社長ならどんな業種でも必ずよくしてみせる」と断言されていました。
まさに私のような中小企業の社長の努力が足りないだけなのだと痛感しました!
<永続的発展のための事業構造づくり>
=これから=
今やネット社会の急伸で、人と人とが「繋がる」ためのコストや労力は軽くなったことを実感します。
しかし「つながりをつくること」が容易になる一方で、地域コミュニティが希薄化し、隣人との関係性が薄れ、自殺者やひきこもり、孤独死が毎年増加している社会現象も絶えません
そういった意味では、本当に強い関係性、絆、繋がりを築くためのコストはやっぱり軽いものではないのだと思います。
祭りの盛んな地域には自殺者が少ないと言われています。
今の時代、べたっとした地縁的なコミュイティがなくても(隣近所が協力して生活しなくてはいけないことがなくても)生きていける時代なのかもしれませんが、やっぱり「つながり」を求めていることはソーシャルメディアなどの発展を見ても感じるところです。
これまでコミュニティというと「地域共同体的」なイメージが一般的でしたが、もはやそれにとどまらず「目的縁」とか「テーマ縁」「道縁」といった「つながり」がドンドン広まっていますが、私たちの志向するコミュニティも元来そんなことなのだったのだと思います
東日本大震災をきっかけに「コミュニティ」という言葉や概念が見直されていますが、そんな有事の時だけでなく、普段の日常の中でもやれること、やるべきことはたくさんあるのだと思います。
ホロニックは、「繋ぐこと」「絆を深めること」「輪を広げること」をコミュニティ事業の中心においていきます。
私たちが運営しているホテルで「シーガルてんぽーざん」があります
極端に言うと「USJにやってくるお客さんが、その日に家に帰れないからどこかに泊まらなくてはいけない、だから泊まるホテル」になっています
まさに「場所貸し屋」です、そんな体質でずっとやってきた森田GMが今パラダイムシフトに悪戦苦闘してくれています。
西梅田にガーデンシティクラブというビジネスエグゼクティブ向けレストランと宴会場があります。
そこは会員制なのですが、会員制は制度をつくることで保たれる仕組みではなく、同じ目的、価値観を共有する仲間(ここでは大阪中心の経営者の方々)が集まりたくなるソフトの力や魅力があって自然に「会員的」になって結果「会員制」になるのだと思います
今会員様が、このガーデンシティのご意見番として「委員会」を組成して、イベント企画してくださったり、どうやったらメンバー集まるか考えてもらったり、どんな品質が高まるか・・など主体的に参画していただいて、私たちはそれをつなげていく役割をすることで「ハコ屋」から脱していこうとしています。
こちらでは“経営者キラー?”の田中さんが完全に会員様の中心で“つなげや的”機能を果たしています。
今、120年以上続く金沢の料亭旅館の再生を行っています
料亭といえば、長年、特定の限られた「権威者」によって支えられているビジネスモデルで、それが料亭文化のひとコマのように思われています。
がもはや、「個人の懐」を排除するありかたで継承できる時代ではないと思います
これから、個人が日本独特の文化に触れることで新たな裾野を広げる、そのきっかけにコミュニティというコンテンツがあるのではないかという可能性を見出すための単身赴任の高井GMが奮闘してくれています。
2014年8月に滋賀県の琵琶湖畔沿いのマリーナ内、私たちの自社ブランドである「セトレ」を開業します。
客室15室程度、レストランと宴会場、チャペルを付した小さなホテルです
これまでは既存物件を買い取ったり、借り上げたりしていた、いわゆる「物件の再生」という要素がありましたが、今回は自社での企画で、ホテルそのものはその敷地を所有するヤンマーの関連会社様につくっていただきます。
そこでは私たちの企画ではありますが、開業まで地元生活者などに参画してもらって様々な要望に耳を傾けていこうと思っています
近隣の人々に「私たちのホテル=MY HOTEL」と言ってくださることが一番よいのです
敷地に畑をつくって、お客様に体験農業とそこで自ら収穫した野菜をレストランで食していただけるようにします。
これから造る家具などに、今ドンドン縮小している県産材(国産材)の木材を使って林業営む方につくってもらいます、そんな地元生産者とお客様をつなぐ場面をつくっていきたい・・・等コミュニティがたくさん生まれてくるホテルをつくっていきたいと思っています
という具合にこれから様々な取組みがたくさんあります
常日頃メンバーたちに伝えています
日々のお客様と接している仕事や役割そのものがコミュニティ創りにつながっているはずですそして経済的に豊かな日本になったからこそ、また人とつながることが簡単になった時代になってきたからこそ、逆に起きている人間関係の枯渇感みたいなものを私たちは「ホテル」といった装置産業を通じて解決していけるのではないか、その手段として「コミュニティづくりを生業とする」ことで、社会に貢献していく。
かつて証券会社時代に思った(それはビジネスマンに対してですが・・)、「やりがい、いきがい、働きがい」を持てる社会をつくること、またそんな人たちが増えることで、「夢や希望のある豊かな社会」をつくれるのでないか・・・
そのための私たちは「コミュニティ創り」をキーワードにしよう、そんな場所や場面づくりをするための施設をつくろう、またそれを生み出す最大の経営資源でもある従業員がやりがいや生きがいを持てる職場や組織をつくる、それがかなえば自ずと顧客はついてきてくださると信じています。
しかし、今私たちは大きな問題が2つあります
=課題 その1=
ひとつは利益が出ていないということです
今期、2013年度の計画は売上33億円経常利益5000万円の予定です
しかしその計画、目標する危うい状況です
ここ数年、何とか赤字を回避出来ているという状態に過ぎません
売上は施設を増やせばつくれる、すなわち資金が調達できればかないますのでそれを繰り返した結果財務状況は良好でありません。
つまり、コミュニティ創りといったコンセプトがまだまだ実態に反映されていません
私たちがお客様から支持を頂くのはソフト力でなくてはなりません
従って、ソフト力こそ高付加価値を生み出す源泉でなくてはいけません。
今、私含め幹部8名と具体的な目標を立てる上での戦略目標を共につくる「すごい会議」をはじめました
そこで社内で起こっている問題の棚卸、いわゆる「ひどい真実」を出し合いました。
私にはとても衝撃的でした
社員が幸せになれる会社にならない原因や理由がたくさん出てきてしまいました
それは、報酬、休暇、施設の修繕投資(自分達施設を愛せない!)、自己成長のための機会(この会社に属していることへの不安)、自慢できる職場環境(社内コミュニティへの不安)、社長のブレなどなど・・・・やりがいや生きがいを持つために必要なことばかりです。
しかし、それを「不満」でなく「課題」としてとらえてくれています
世の中に貢献するためにはできるだけ多くのお客様に支持を頂かなくてはいけませんし、当然それに伴う施設も増やしていく必要もあります
しかしその土台になる社員が幸福感を持って頑張れる態勢を築きあげなくてはいけない
そのために「会議と議論」を開始いたしました!
「社員とその家族が最高に幸せになる会社にする」というスローガンも掲げました
これは皆の総意でした!
思えばこれまで経営幹部が寄り集まって真剣にひとつの方向性や方針を議論するような場はなかったように思います。
私たちの中にある課題や問題の多くは、この数値目標を実現することで解決すると思っています
これを掲げたのは、これまで数年間、ないがしろにしてきた、「決めたことを守る」という本来すべきことが破られ続けている状態を私含めた社内全体に蔓延する甘えを断ち切ることが目的です。
この妥協をなくす体質にしていくことが大事で、それをあえて「数」で掲げて具体的にしました。
なので、決して数値の達成が充分な条件ではありませんが、「これくらいやれなきゃ、みなが出した問題、課題、酷い真実は解消できない、そして社員とその家族を最高に幸せにすることは出来ない」と言ってそれに向かっていく態勢をつくろうとしています。
=課題 その2=
もうひとつ それは社員の定着です!
「人は辞めさせない」と7年前に決めましたが、それでも辞めていく人は絶えません
経営理念で「人々の生活環境の充実、生活感度の向上」とうたいながら社員のやりがい、いきがい、働きがいを満たすことが出来ていないことの代え難い真実です
会社を辞めていった人たちの中には「サイレント・ノン・リピーター」も少なくありません
いわゆる「黙って二度と来ない人」、「ひどい真実」を言わず(言えず)に会社を去っていく・・・
これは日頃、このようなお客様を出してはいけないと社内に言い聞かせていることです
しかし、肝心の社内でもそんな人が多いのは残念なことです。
決して「人が辞めない会社にする」ことが目的ではありません
社長である私の指針や向かう方向が、皆と共感されていれば「やめにくい(辞めたくない)会社になる」ことは間違いありません。
そんな構図になれば、仮に辞める人がいても、それは「卒業」として新たなステージに向かうことになる、またそれを送り出すことが出来る、そんな関係はそれまた喜ばしいことです。
だから、矢印は自分に向ける必要性を強く感じています!
自分自身の理念を高める必要性を感じています!
ずっと7年くらい「闘魂塾」なる社内で「社長の想いを伝える場」が定例で開催しています
今年から頻度を高めました。
社内グループウエアなどで、日々考えること、思うことを伝える努力はしています!
しかし、もっともっと膝詰めでやらなくてはいけないことを痛感しています!
また何より自分自身の理念、感性を磨き、高め続けなければ、本当に浸透していかない!
それを実感しています!
私たちホロニックの社名にもあるように、「個」と「全体」が二律背反するのでなく、共に調和する、社員ひとりひとりが店主のような魅力を醸し出していけることで「甲斐」をもてるでしょうし、またそんな人たちで組織して、見事な調和を生めるような会社にしたいです
<最後に>
=前回の経営体験発表から今回までの変化=
今回の経営体験発表を迎えるにあたって、前回の映像などを見直してみました
愕然としたことがありました。
それは、変わったつもりの自分がほとんど変わっていなかったことです
矢崎前代表から、「不動産業とコミュニティ業の間で決着がついていない」と3年前に言われていました、
今はコミュニティ創造企業と謳っておりますが、それでもやっぱり事業の成長を「ハコづくり」を主体にしていました。
当時の経営者から「人の生活環境や感度を高めて良質の社会をつくりたいからコミュニティ型ホテルをやっている」のか「地域型コミュニティホテルの再生が市場性やビジネスになるからやっているのか」という問いかけで、その時は後者が先だと語っていました。
そして今は違います、というか「今は違う」のでなく「そもそも違っていた」のだと思います。
「市場を創りたい」ということは目的ではありましたが、それは本当に願望している「人がいきがい、やりがい、はたらきがいを持てる社会にする」、そして「活力や豊かな社会にしていきたい」という目的に到達するためのプロセスだったはずなのです。
いつの間にか手段が目的になっていました。
しかし、コミュニティをつくるといっていますが、「コミュニティ創り」によって利益が出るイメージがまだまだ出来ていません。
また他の経営者にも指摘されました
「長田さんがコミュニティ事業は儲からないと思っているんじゃない!」と・・・
不本意ながら否定できませんでした
そういった意味では、いまだ「ハコ」を動かすこと、そのためのコストを抑制することでビジネスを成立させようとしています。
社員が辞めていくことの原因は何なのか?
やっぱり「ハコ」をつくってから人を集めたり、育てたりしようとしています
M&Aや事業譲渡を受けたりして、取扱い売上を増やしてきましたが、そこでは引き受けた会社や組織やそれを取り巻く人材の風土や資質,志向などがそれぞれ異なります
しかしそこに向き合うことを避けてきました。
それは仕方のないことだと、自分の中で仕舞い込んでいました。
本来は「人をつくる」そうしたら自ずと「ハコ(ビジネス機会)は増える=売上があがる」のだと思います
今私たちはいろいろなコミュニティ創りのための取組を始めています!
しかし、それが成長していくための大きな目的につながる手段としてまだ明確に表れていません。
それは私自身まだなお「ハコ神話?」囚われているからなのだと思います、
まだ私自身が信じきれていないのだと思います
ありがたいことに、不本意ながら、それを今回の発表を前に気づかされました
前回も気づきはありました、そして今回も、それは頭で理解出来てきました、あとは行動です!
(最後の最後に)
先日、ニュースで陸前高田市で津波によって流されたホテルが再計画され来年開業するとありました。
40室の小さなホテルのようですが、市長さんのインタヴューを聞いて改めてホテルはその地域を照らす存在になりえるのだと思いました。
シビックプライドという言葉がありますが、それはまさに文字通り「市民が都市に対して持つ誇りや愛情のこと」です
ホテルは、そんなその地域の生活者にとって「シビックプライド」を持つことのできる存在にもなりえますし、当然誇りを持てる市民、町民がいるその地域は活性化されるのだと思います。
それに加え、さらにその存在意義は私たちのような運営を担う者が居て高めることが出来るのだと思います。
言い換えれば、私たちはホテル等の運営を通じて「地域の人たちの誇りを高め、その地域の活力」の役割を果たすことが出来るのです。
私がこれまで経営してきた過程は「再生事業」でした
遊休施設やホテルといったハードの再生、
そして今、枯渇されてきたとされる「コミュニティ」という概念の再生や復権
誰かしら、または何かしらの「要求」や「依頼」があったものに対応するようにビジネスを展開してきました。
また途中「再生事業」というのがとても耳障りがよいイメージを持ったり、また社会に貢献している利他業をやっている心地になっているだけの私心あふれた経営だったかもしれません。
でもこれからも、誰かの、何かのニーズ、また時代の要請などによっておこる「再生事業」は続けようと思います
同時に、依頼されているわけでない、私自身がこれからやっていく仕事は、例えば50年後には8000万人にもなろうとしている加速度的な少子高齢化の日本において、「ひとりぼっちの8000万人の社会」でなく、「いきがいややりがいに溢れた8000万人の社会」にしていく礎をつくりたい、
そのために自立した個人(依存に溢れた個人でなく)でありながらも、「つながり、絆、共感」を持てるような協同体(社会)創りを目指したい
そうなれば、きっと今より活力のある人々によって構成される社会になると思います
多くの人、多くの国民、出来る限り多くの人類が夢や希望を持てる社会を創るために私たちは頑張ってきたいと思っています!
本日は、改めて自分を振り返り、またこのようなつたない話でもさせて頂く機会を頂戴し、大変感謝しております。
会社としては今は成長しているとはいえません、財務体質からいくといささか膨張気味です。
課題は山積ですが必ずや豊かで良質な社会づくりの一旦を担える会社にしていきます
今回同じ境遇の皆様と学びを共有させていただくことは大変有意義なことでございます。
またこの場を通じて自分自身を高め、会社の成長に活かしていきたいと思います。
本日はご清聴ありがとうございました。