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「経営者の視座」

思えばコロナ禍はいつ明けたのか、はたまたまだ明けていないのか(そう思っている人はあまりいないと思いますが…)、また、これは一時的なパンデミックな現象だったのか、いや、これからも自然環境と人間との関係性からもこのような感染性のある事象が常態化する…などなど色々な見方が色々な情報機関やネット等のツールなどを通じて広がっています!

特にツールについては、ネット環境が充実すればするだけ受け手は情報量が青天井な程増え、AIが進化することで、情報の質も高まり、いつでもどこでも誰もがあらゆる情報を入手することや触れることも出来るようになります

それは、かつて!と比べるとはるかに便利でもあるし、それだけ各個人の知りえる事実や触れあえる事象が格段に増えてきます

それこそ、かつて!は情報は貴重な資源であり、ある種限られた権限者(公的機関、大手企業、金持ちなど)の専売だったわけですが、今や誰もが取得できると考えるといわゆる消費者に情報主権が移行していっていると言えるでしょう

しかし、一方、それゆえに、これまで以上、その主権である(になった?)一消費者、一個人に何が求められるのか・・・というと、それは「教養」なのだと思います

大学に入学したらどんな専門学部に行こうが必ずある科目が「一般教養」
(かつて私が大学生のころは「パンキョウ」(般教)という略語で、必須なのだけど、まあ適当に受講する科目群として扱われて?いました)

いわゆる人文学、芸術、社会科学などの分野の基礎知識を横断的に学ぶプログラムとされています

まああっさり言って「一般的な常識」と言われるものでしょうか…

先日、ホロ社の拠点のある兵庫県では、パワハラと揶揄された前知事がメディア等を通じて連日連夜、糾弾される報道がされ、辞職を余儀なくされ、出直し選挙に臨んだことは全国区のニュースになりました

少なくても、その報道を見ている限り前知事に共感した人は少ないと思います!

糾弾されればされる程、振舞ばかりがクローズアップされ、県政という政策の是非は伝えられず(希薄化され)、報道に対する同調圧力が増していき、益々パワハラ事象だけがその人の人格の全てになり、そのうちそれを推薦した党にまで責任論が及び、そのうち、それまで「推し」だった人が知らぬ間に周囲の同調(この場合負の同調)に合流?していく…

結果、今回はその向かい風に対してSNS(まさに個人主権の情報ツール)の力に大きく寄与した(と言われている)ことで返り咲き当選を果たしました、そして今度は現知事には手のひらを返されたように正の同調が起こり、不信任決議を全会一致で通した県議会議員(つまり県議会議員が全員反旗を翻した)が一瞬にして批判に晒される

この光景を同じ県民当事者として見ていて、本当に「判断する軸」が多様(というかこの場合、カオス!)になっているのではないかと改めて思いました

今、世の中は「多様性の時代」という概念や言葉が広がっています…

同調性になびく空気をつくりながら、多様性を唱える…という矛盾がまん延している

これは今今タイムリーなトピックですが、少し時代を引いて見たケースでも同様です

例えば、今は少子高齢化が社会問題になっていて、少子化問題、つまり「人口減少」がこれからの日本経済にとっての大きな課題とされています

が、少し遡って、私が少年の頃、まあ40年くらいまでは、よく記憶に残っているのは「人口増が諸悪の根源」とされていました!

狭い国土のほとんどが森林、そして島国でエネルギーを自国で生成できない、

増え続ける人口に対応していくだけの資源がなく、先々の日本経済は深刻でその解決法は人口抑制だ!…とされていました(少し前の中国の一人っ子政策みたいなものです)

面白い?‘というか摩訶不思議な話です…💦

諸悪の根源が30年余りの間でまるで擦り替わったわけです

事情や事態が変わったわけではありません、人口の増減傾向が一瞬にして替わることはありませんので、

変わったのは人の観念やモノの捉え方

それが一瞬にしてサドンデス!!(突然変異のような)だったわけです

最近は、ちょっと何かあればハラスメント、コンプライアンス(法令順守)、ガバナンス(統治)といった言葉が飛び交い、それが「世知が無い国!」のように感じる層(とりわけ中高年?)が多い(その反動として昭和的な哀愁が見直されているのかもしれませんが…)印象がありますが、ではかといって、ロシア、ウクライナのような無秩序状態、今の中国共産党独裁国家の様相だったらよいのか…トランプを大統領に選出するようなドラスティックな国だとよいのか…または国内においても、かつての戦国時代のような(ちょっとなんか刃向かったら切腹や斬首のような)世界が生き心地がよいのか、戦時中の戦艦に向かって戦闘機ごと特攻していくのを善としていた時代が美しいのか、

その感性を今に当てはめるとほぼ現代人は即死だと思います💦

そう思うと「VUCAの時代」などと声高に言われる昨今の事象を見て、相当、現代は混沌ではありません

メディアでは博識者の見解を摘まんで、時代の危機を煽るような報道が多いですが(戦後最大の危機、観測史上最大の●●、人類史上最悪の〇〇…みたいなのは大概いい話ではない…)、それを見たり聞いたりする機会を主体的に受信することが出来る世の中だからこそ大事なのは、それを捌く(さばく)力

つまり、自分の頭でそれを判別し、考える力!

SDGs活動もとてもよいことですが、それはバッジをつけて「やってます!」をアピールすることがいいことなのではなく、その本質を見極めて自分の頭で考えて、自身の信念に基づいて行動することが大事なことだと思うのです

正解がない・・・というか、たったひとつの答えが正解というわけではない、

そういった意味では混沌としているわけですが、それが多様性を容認するということだと思います

私は、ホロ社を起業して四半世紀経過しましたが、未だに自分の理念というものが日々揺れ動いていることを自覚しています

日々その理念を高めていくのはどうしていくのかに邁進、時に迷走しています

だからこそですが、経営者には大局観というのが大事なのではないか、ということを今さらながら強く思うことがあります

50代半ばを越えて、かつては若手経営者と言われていましたが、今は若手とは言われません、

が、重鎮経営者からすると、まだまだこれからだな…なんて言われます

どっちなのでしょうか?

そこにも正解はありません!

自分がどう捉えるか、にかかっているわけです

先月のレポートで少し書きましたが、20年前は舞子セトレの20年後、ないしはホロ社の社会的立ち位置など考えていなかったと思います、が、今、セトレ舞子をこれから30年継続していく契約を締結するプロセスにおいて、その時の有り姿を考えるようになっています!

この場所にセトレは必要なのか、それは30年後、50年後、100年後まで見越したうえで今を捉えていくまさにバックキャスト志向が必要です、その時、その場に自分がいない(意志としていないのでなく、物理的に?居合わせない!)事象を想像するわけです

未来を想像して今何をすべきか!を考える、

「既に起こった未来!」の如く思考する

想像力や創造力が求められるわけですが、そのためには目の前の事象を追いかけている場合ではありません

だから同調圧力などに靡いている場合ではありません

先々のことを見据えていくために、今の事象に対して見極めていく!

そのためには目の前の事象に対して受容しつつ、ポジティブシンキングである必要があるのだと思います

評論や批評、ないしは嘆くのでなく、可能性から考える

経営の神様・松下幸之助翁も言っていました

「執念ある者は可能性から発想する、執念なき者は困難から発想する」

「好況よし、不況なおよし」

文字通りの解釈ですが,氏曰く

好況はよいが、不景気は困る。これが多くの経営者の正直な感懐だろう。しかし、松下幸之助の景気観は違う。「好景気のときは、駆け足をしているようなものだ。一方、不景気はゆるゆる歩いているようなものだ。駆け足のときは他に目が移らないから、欠陥があっても目につかないが、ゆるゆる歩いているときは前後左右に目が移るから欠陥に目がつき、修復訂正ができる」という。

 つまり、景気が悪く商品が売れないときは、それまで手が回らなかったアフターサービスを徹底する、社員教育に力を注ぐなど、不景気なりに利点がある。世の中が不景気で停滞しているときに、こうした努力をすれば、「不景気こそ千載一遇のチャンス」にもなる

 

と解説されています、なんてポジティブなのでしょう!

向かい風な時こそチャンスと思える

おそらく幸之助さんはその境地に至るまでに無数の痛み、想定外を繰り返したのだと思います

それを繰り返した結果「大局観」が育まれたのではないかと思うのです

大局観を持つこと、

そのためには教養を磨くこと、

答えは探すものでなく、創るもの、むしろ探すものは「問い」かもしれません

自らに問う、問い続けること

そのためには自習力(自ら自己啓発する力)を発揮することでしょうか…

ホロニックには「主体性と主体性の応援」とバリューズに示されていますが、まさに「究極の主体性」こそが視座を高めることですね!

少なくても経営者には欠かせない習慣なのかもしれません